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2024/05/22 05:38 |
おもしろき こともなき世を おもしろく

3~4日に1回のお洗濯。
その中にボーダーT3枚。
私、なんかほぼ毎日ボーダー着てたようです。
どんだけ好きなんだ


「おもしろき こともなき世を おもしろく すみなすものは 心なりけり by 高杉晋作」
mixiアプリの『今日の名言』。
本日の名言の中に高杉さんの句が入ってて嬉しくなりました
高杉さん、高校時代に教科書で写真見た時からちょっと気になる幕末人物(笑)

Wikiを参考に、簡単に年表にまとめてみました。
天保10年(1839)、長州藩士高杉小忠太の長男として生まれる。
藩校明倫館に通い、剣術も習う。
安政4年(1857)、17~8才の頃、松下村塾で吉田松陰に学ぶ。(久坂玄瑞と共に松村塾の双璧と言われる?)
安政5年(1858)、江戸へ遊学
安政6年(1859)、安政の大獄。吉田松陰処刑される。
万延元年(1860)、防長一の美人と言われたまさと結婚。
文久元年(1861)、藩の所有する船で海軍修練のため江戸へ。東北遊学。佐久間象山とも交遊。
文久2年(1862)、藩命で上海へ。清が植民地化する様子や太平天国の乱を見聞し、衝撃を受ける。日記『遊清五録』
 同じ年、久坂、品川ら同志と外国公使暗殺を企てるが、藩世子に伝わり止められる。同志たちは櫻田邸内に謹慎。謹慎中、御楯隊結成の血盟書をつくる。
 また、同志らと共に品川に建設中の英国公使館焼き討ち。
 さらに彼らは、松陰の遺品を白昼堂々小塚原から世田谷に移して会葬する。
文久3年(1863)、長州藩が関門海峡において外国船に向けて砲撃するが、米仏の報復に逢い惨敗。晋作は下関の防衛を任せられ、後に身分に因らない志願兵による奇兵隊を結成。
 ☆この頃京都では、8月18日の政変により長州藩京都から追放される。
文久4年(1864)、1月晋作は京都へ進発しようとする来島又兵衛を説得しようと試みるが相容れられず、脱藩し京都潜伏。桂小五郎の説得で2月に帰郷するが、脱藩の罪で野山獄に投獄され、6月には出所して謹慎処分となる。
7月、長州藩は禁門の変に敗退。来島は戦死、久坂玄瑞は自害。
8月には、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠されると、晋作は赦免されて和議交渉を任される。“領土の期限付き租借”要求だけは頑として譲らず、要求取り下げに成功。この時晋作24才。
慶応2年(1866)、長州vs幕府の第二次長州征伐(四鏡戦争)では海軍総督として自分で調達してきた丙寅丸(オテントサマ丸)に乗って大活躍 その後戦争は小康状態に入るのだけれど、もともと幕府軍の士気も弱かった上、将軍家茂の死去もあって幕府軍退陣・・・
長州は無事存続。

晋作さん、その後は肺結核のため桜山で療養し、慶応3年(1867)、大政奉還を見ずして27才でこの世を去ります。


特に後半は波乱万丈の激しい人生。
脱藩して獄に入れられて、だけど釈放されて列強との講和会議。
わざわざ釈放して講和会議に出向かせるあたり、藩も晋作の能力を買ってたんだろうと思う。
晩年は病に侵されながら、持ち合わせた力をふりしぼって“おもしろき こともなき世を おもしろく” 生き抜いたのでしょうか。
下の句“すみなすものは 心なりけり”は看病に当たっていた野村望東尼がつけたという説もあるそう。
本当にこの国のことを想って、過激と言われようがなんと言われようが、志を実行に移していった晋作。
激しすぎて、周りからはあまり歓迎されなかったかもしれない。
だけど、彼の行動力には本当にパワーを感じるし、ついていきたくなる魅力があって。
知性と実行力を兼ね揃えた、稀有な人だと思う。

お坊ちゃん育ちで苦労もなく育っただろう晋作。
そんな彼を変えていったのは、晋作自身と、まぎれも無く松下村塾。
もしも吉田松陰や後に同志となる面々に出会わなかったら、こんなに強烈な人生は歩まなかったのじゃないだろうか。
教育って、その人の人生にまで測り知れない影響力をもってるものなんだと思ったら、今の日本の教育にはちょっと疑問。。
一体どこへ向かっているんだろうか。
 

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2010/02/17 21:59 | Comments(0) | TrackBack() | 歴史

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